ねりガラ子ノート 改!

好き勝手書きたい事書くブログです。前のブログから随時移行中です。

LIFE、人生とるか、生活と見るか。私は命と見る。

(※前ブログの再掲載です。2019.10.06.)

いい記事読むと、書きたくなるよね。

という事で、読んだのはこの記事。

 

LIFE、人生と見るか?生活と見るか?|僧侶、家出する。(幻冬舎plus) 稲田ズイキ(僧侶)

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20191005-00013920-gentosha-life

 

この記事のタイトルが、ほぼそのまんまですみません。直感です。

内容は、

  • 首都圏のスーパーLIFEを友達と見つけた時に、筆者は「人生」と読み、友達は「生活」と読んだので議論になった。
  • 『ライフ』とは、今日明日の「生活」と、この先の生き方についての「人生」、どちらに無意識の比重を置いてるかのリトマス紙になる言葉なのではないか。
  • その時の状況において比重は変わり、人は「人生」と「生活」の間で揺れている。

 

というものだが、是非本文を読んで頂きたい。

 

記事を中盤まで読み進めて、バッと感じたのが、タイトルの通り、

   私は命と読む。

だったのである。

 

多分現状が、経済的に底で親族頼れなくて、抑うつ状態で休職、という中で、多少なりとも命の危機と無意識に思ってるらしい。

死にたいと、生きるしかないか…という諦観と、肩の力抜いて生きたい…という願望との間を揺れ動いてる思考の中で、ロールプレイングゲームの戦闘中に出てくるライフメーターが浮かんできた。しかも赤点滅してる状態だった。いわゆる「ライフはもうゼロよ!」である。関係ないが、一度もそんな台詞打ち込んだこと無いのに出てくる予測変換は優秀だ。

 

 

何故そう感じたのか、を突き詰めていくと、自分のこれまでの思考と今の思考にリトマス紙を当てて、棚卸しをしていくようだった。

 

これまでの私は、筆者と同じで「人生」を重視していた。目標というか理想があって、これからの為に、今頑張らなきゃいけない、と脇目も振らずにただ「人生」目がけて全力疾走していたのだ。

 

ただ、一つ言えるのは孤独ではなくなったということだ。それは友達がいるいないの話じゃない。なぜ自分が生きているか、この世界に貢献しない限り生きている価値はないのか、存在意義を求めて世界でひとりぼっちで戦う感覚はなくなってきた。今あるのは「1対世界」ではなく「1対1」が積み重なって世界が出来上がっている感覚だ。

(本文より)

 

私はまだ孤独を感じていて、上の引用にあるような「存在意義を求めて世界でひとりぼっちで戦う感覚」が強いのだろう。だからこそ、

倒れて働けなくなった瞬間、緊張の紐がブチっと音を立てて切れたようなあの時に、「人生」から「命(生命)」に変わったのだ。

 

あんなに欲しがっていた人生の意味は、どこか遠くへ消えていってしまった。決して答えが出たわけじゃない。「人生に意味はあるか?」という問いそのものを考えなくなったのである。それは「人生」に傾きすぎていた心が「生活」の価値に直面して、バランスを取り始めたということなんだろうか。(本文より)

私も傾き過ぎてたバランスを取ろうとしているのかもしれない。今の私は「命」、次に「生活」の比重が強くなってきた。「人生」は、目標ややりたい事が急に無くなって、一寸先は闇と途方に暮れている。

 

今まで、人生にばかり目を向けて、周りと比較して焦って無理をして、本当に自分の心と身体はどうしたかったのかを蔑ろにしてきたから、エネルギー切れ気力切れの現状なのではないか。

 

どうやら、仕事も含め、どう生活を営んだら心も体も心地よく生きれるのか、をもう一度見直し、作り直す時期にきているのかもしれない。罪悪感しか感じなかった休職の意味が、漸く見出せた気がした。

 

まだ外に心は開けないし、そもそも碌にうごけないし、一朝一夕にはいかないだろうが、出来る限り小さな事から一歩ずつ。今はそこから進むしかないのだ。